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長井戸城跡  ~ 境の郷土史③ ~

2016年05月19日 13:25

長井戸城跡は、現在の長井戸香取神社を中心とした位置にあった。この居館は中世(鎌倉・室町・戦国期)の方形城館として貴重な遺跡である。

城の起こりは、1983年度より2ヵ年度にかけて行われた第一次・第二次の学術調査から屋形建築の柱(ちゅう)穴(けつ)、空堀、版築状の土塁から検出された遺構並びに「瓦器」「瓦質式土器」等の遺物によると、居館は12世紀~13世紀頃の鎌倉時代に築かれ、戦国時代まで在地豪族によって使われた可能性が高いと検証された。そして江戸時代になって廃城となり、のちに香取神社が鎮座し現在に及んでいることがわかった。この居館は「東国闘戦見聞録」という軍記物によると、天文てんもん年間(1532~1554)には地元の城主菅谷左京の居城として栄えたが、天文てんもん23年(1553)に下野国小山朝政軍勢の攻撃を受けて、激戦の末に降伏し、隣の稲尾城主稲尾加賀守とともに小山の軍門に下ったと伝えられている。小山氏軍勢が下総へ侵攻した年次は、当時、北条氏康の勢力のもとに足利義氏を古河公方に擁立させるが、この事態に足利晴氏とその子藤氏が氏康及び義氏に反撃を試み、天文てんもん23年には晴氏父子の古河籠城事件が起こった。同時に義氏は小山の領地一部を重臣野田左衛門大夫に与えている(宛行あてがい)。

以上の理由により、小山氏は、足利晴氏方に号応して氏康・義氏を討つべき侵攻したものとみられる。菅谷氏は小山氏に降伏した後は、16世紀末朝鮮出兵(文禄・慶長役)や大阪の陣に当地の相良氏とともに参戦したが、その後は、当地に帰農している。菅谷家のご子孫の屋敷は城跡の北隣にあり、江戸時代初期の「変り兜」の具足一揃えが、境町歴史民俗資料館に保存されている。 

なお、現在、長井戸城跡の周囲には、当時のたたずまい(居館(きょかん))を思いださせる二重の土塁や「横矢かかり」が存在している。

(文責 郷土史家 中村正己)

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