~ We Love Sakai ~ 


耐えた報いが語る38年間の想い出   ~西山さん(境町)~

2018年05月30日 09:33

 わたしが結婚したのは昭和19年4月のことでした。当時、主人は羅南憲兵隊付清津憲兵分隊に配属されておりました。

 清津はソビエト連邦の国境に近い朝鮮北部の戦略的要衛で、いわば前線基地に位置していたわけです。私は敦賀港から船に乗り満州丸にて清津港に着きました。清津での生活は、日本と違って文化の遅れはあったものの何不自由のない暮らしでした。

 

 しかし、平穏な日々もつかの間でした。昭和20年3月の東京空襲を境に、この北辺の地にも爆撃機が飛来し、7月頃には防空壕を行ったり来たりに毎日が続きました。私のおなかには9ヶ月の子がおりました。大きなお腹を抱え、防空壕への出入りには十分気をつけていたつもりですが、とうとう転んでしまい、そのショックで8月15日の出産予定が狂い、7月29日、清津産婦人科病院で長男を出産しました。お産がすんだのをみはからうかのように空襲警報が鳴り響き、「全員避難してください。」という放送が病院内に流れました。私は病室に取り残されどうすることも出来ません。生まれたばかりの赤ん坊を抱き寄せて、蒸されるように暑さの中、布団を頭からかぶり息を殺してじっと警報解除を待っておりました。後から聞いた話ですが、この時、主人が心配して、空襲を報せるため病院に何回か電話を入れたそうですが通じなかったということです。

 

 1週間後に退院しました。まだ命名も済まない8月9日午前4時頃と記憶しておりますが、突然、非常招集の笛が官舎内に響き渡りました。私は急いで主人を起こし、出勤の身支度を調え送り出しました。何か不吉な予感がしてオロオロするばかりでした。

 間もなく隊から情報が入り、ソ連軍が攻めてきたとのことです。憲兵分隊の家族は、清津港埠頭の側にある分隊敷地内の官舎に住んでおりました。官舎の目の前が埠頭です。軍事港でもある清津が戦争になれば最初に攻撃目標になることは明らかです。ソ連参戦の情報が入るやいなや空襲警報のサイレンが鳴りっぱなしになりました。お産のために頼んでおりましたおばさん(オムニ)が子どもを抱っこしてくれて私も防空壕に避難しました。

 

 ちょうどお昼頃だったと思います。私たちの防空壕に二人の兵隊さんがやってきました。そして直立不動の姿勢で私たちに向かって、「上官の命令です。清津も危なくなってきました。上官より新しい軍刀と拳銃を渡されて参りました。命令次第、この軍刀と拳銃にて皆さんの命を頂くことになりました。」と一気に命令を伝えました。豪内はシンと静まりかえりサイレンの音だけが不気味に響いていました。その時、おそらく隊長さんの奥さんかと思いますが、「全員、覚悟はできております。どうぞよろしくお願いします。」と兵隊さんに向かってお辞儀をし、私たちに向き直り、「皆さん、軍人の妻として恥ずかしくないよう身支度をしておきましょう。」とおっしゃいました。お風呂が沸かされ、警報の合間をぬうようにしてかわるがわる入浴しました。私もお湯をタライにもらい子どもと一緒に身を清め晴れ着に着替えて自決の命令を待っておりました。

 

 そこに、補助憲兵さんがやってきて、私たち一人一人に茶封筒と便箋2枚を配りました。「皆さん、この封筒に遺品と遺書を書いて入れて下さい。この手紙はきっと皆さんの両親の手元にお届けしますから」と言うことでした。私は、髪の毛を抜き、爪を切り、遺書をしたためました。

 壕の外は夕闇が迫っておりました。私たちはただ唇を噛みしめ、心細さと恐怖に耐えておりました。

 

 午前7時半頃と記憶していますが、壕の入口の法から駆け込んでくる数人の足音がしました。その人たちは大声で「皆さん一刻も早く逃げてください。」と叫んでいました。静まりかえっていた壕内が突然ハチの巣をつついたような騒ぎになり、今までの緊張が一気に爆発したようでした。私も無我夢中でリュックを背負い、リュックにはいつでも避難できるように身の回りのものを詰めてありました。そして子どもを胸にしっかりくくりつけ、壕を飛び出しました。外は雨でした。眼前に広がる真っ暗な海の彼方に転々と灯りが見えていました。ソ連軍の艦隊と聞かされて背筋が凍るような思いでした。

 用意されたトラックに乗り込み、羅南まで避難しました。私たちが避難した数分後、清津港は艦砲射撃を受け全滅したそうです。

 ここで羅南憲兵隊の家族の方々と合流して一緒に避難することになりました。羅南から鉄道を利用して貨物車に乗り込みました。途中何度かソ連戦闘機の機関銃掃射を浴び、その度に汽車は止まり、私たちは山に逃げ込み、木の枝を身体につけてカモフラージュし、発見されないように地面にへばりつきました。

 

 やっと白岩というところにつきました。ここで一時鉄道宿舎に避難することになりました。随分と山奥だったように覚えています。ソ連機の攻撃をスシ詰め貨車での逃避行で、産後間もない私の身体はボロボロに疲れていました。その日が何日であったのか定かではありませんが、誰からともなく戦争が終わったらしいという話がささやかれ始めたのを覚えていますから、

おそらく8月15、6日だったのでしょう。舎宅で冷たい水を飲みやっと一息つきました。

 子どもは暑さで汗疹は一杯できてしまいました。宿舎のおばさんに頼んで洗面器を借り、お湯をもらって子どもの身体をふいてやりました。そばで見ていた奥さんに「子どもは垢では死なないからおよしなさい」と言われたことが今でも耳から離れません。

 

 私たちは、しばしの休息の後山を下り、駅に着きました。駅には9日の非常招集以来会わなかった主人達が待っておりました。ここで初めて戦争が終わったこと、日本が負けたこと、そして、これから日本まで逃げて帰らなければならないことなどを知らされました。

 しかし、待っているはずの主人の姿はありませんでした。「後から行くから早く汽車に野って下さい。」という付き添いの兵隊さんの声に促され、私たちは汽車に乗り込み出発を待っていました。その時、やっと主人が駆けつけてくれました。主人は、清津港の艦砲射撃の際、乗っていたトラックが吹き飛ばされ病院にかつぎ混まれたそうで、この時も顔に包帯をしておりました。父親と子どもとの2回目の顔合わせでした。

 名前も決まらないうちに主人と離ればなれになっておりました。主人は、私に「一枚の手紙を取り出して見せてくれました。それには「西山卓志」と書いてありました。この子もやっと一人前になれた。主人にも会えたという嬉しさが、今までの疲れを吹き飛ばしてくれました。

 主人は命名書と一緒に蜂蜜の入った水筒と卵が10個入った袋を手渡してくれました。この子には蜂蜜をお乳がわりにあげなさい。そして生卵はお前がたべなさい。元気で帰ってくれ。私も必ず後から帰るから」その言葉が最後になろうとは……。

 

 私は貯金通帳と印鑑を全部主人に渡しました。これでなんとか命を繫いで帰ってきて欲しい。自分は内地へ帰ればなんとかなるという気持ちでした。ソ連軍はすぐ背後に追ってきています。一刻の猶予もできません。主人に見送られながら後ろ髪がひかれるおいもいで白岩を発ちました。手をふる主人の姿を私は無言で見つめておりました。

 

 私たちの乗った汽車が元山を通過して間もなく付き添いの兵隊さんからソ連軍が元山に上陸したことを知らされました。上陸したソ連軍は直ちに南下し、38度線に進駐し朝鮮を南北に遮断してしまいました。その直前に私たちの汽車は38度線を越え京城に逃れることが出来たわけです。京城の憲兵司令部に着きました。しかし。ここも敗戦処理でごった返しており、とても落ち着けるという雰囲気ではありませんでした。私は暑さと疲労で生きる気力さえなくしておりました。子どもがいなかったらどうなっていたかわかりません。お乳が出ず子どもは泣くばかりです。主人から渡された蜂蜜に気づき、お湯に溶かして子どもの口に吸いこませました。私も生卵をいただきました。こんなことではいけないと思い直し自分に鞭打ちながら皆さんについていける所まで行こうと気を取り直しました。

 

 京城から釜山へ出ることになりました。汽車は日本へ逃れる人達で満杯の状態でした。食事も満足にとれません。たまにコーリャンのご飯が配給になる程度です。お茶碗も箸もありません。楕円形をした鰯の缶詰の空き缶がお茶碗がわりです。木の枝を折って箸に使い、一人が食べ終わると次の人に空き缶と棒切を渡すという具合でした。コーリャンは産後に良くないと後で聞きましたが、その時は何も知らず、食べるものもその他にないわけで、お腹がキリキリ痛んだことを思い出します。

 一体今日が何日なのかということもわからないまま、ただ生き逃れようということだけで頭がいっぱいの毎日でした。この子と一緒に日本の土を踏みたい、ただそれだけでした。

 

 ようやくの思いで釜山へたどり着くことができました。海の向こうは日本です。ただ、どうやって海を渡るかが問題でした。もちろん関釜連絡船が通うはずもありません。あちこち手を尽くしてヤミ船を見つけることができました。しかし、当時のお金で一人2百円がかかるということでした。幸い私はどうにか2百円持っておりましたから船に乗ることができました。が、一緒に逃れてきた人達の半分くらいは後に残されました。ヤミ船は漁船のような小さな船だったと記憶しております。その小さな船に数千人が乗り込みましたから船内は身動きすらとれない有様でした。

 

 普通、関釜連絡船は8時間の航路です。そこを敵の警戒網をかいくぐっての航海ですから少し走っては止まりで遅々として進みません。対馬海峡に機雷が投下されたということで、もうだめかと覚悟を決めました。日本を目前にしてこのまま海の藻屑になってしまうのかと思うと、とてもやりきれない思いでした。機雷の海を丸3昼夜かけて船はそれでも少しずつ進みました。乗船者にとっては長い辛い航海でした。その間、私が口にした食糧はほんの一袋のカンパンだけでした。ほとんど飲まず食わずの状態だったのです。無礼な話しで恐縮ですが、この船の中でトイレはどうしたのかまったく記憶にないのです。おそらく出るものも出ないほど物を口にしていなかったからだと思います。

 

 日本海は大荒れでした。子ども連れの人は船倉に、それ以外の人は皆甲板に上がりました。甲板は波に洗われ、そこに乗船している人は頭からしぶきを浴びて、船倉にいる人は重なりあうようなスシ詰め、ついに耐えきれなくて海へ投げ捨てて下さいと泣き叫ぶ人もでる始末でした。ようやく日本本土が見えたとき全員が甲板から身を乗り出して、ただただ泣くばかりでした。この時の嬉しさといったらもう筆舌に尽くすことはできません。やっと生きて帰れるという実感が私の胸を打ちました。いつ死ぬか、これでもうだめかと常に死と背中合わせで過ごしてきた数日間がまるで夢のように思われました。

 

 下関港では婦人会の方々が出迎えてくれました。タライに一杯の氷かけと冷凍みかんをいただき空腹の私には生涯忘れることのできない美味しさでした。おむすびもいただきました。故郷に帰ったような気持ちになりました。

 

 下関の市街も空襲を受けたかのかまだあちこちに余燼(よじん)がくすぶっておりました。小学校に案内され、お風呂に入れてもらいやっと生きた心地がしました。帰国者ということを聞きつけ、あちこちから家族や知人の安否を尋ねる人が集まってきました。なかには、清津や結城、会檸にいらした方もおり、私達も知っている限りの事をお伝えしました。

 

 明朝、故郷に帰る支度をしました。支度といいましても何ほどのものもなく、背負ってきたリュックの中身は全部オムツに化け、身につけていたものまでオムツに使い果たしていました。私が大切にしていた着物4,5枚、清津を出るときに身につけておりましたが、途中で自家宛てに小包で送りました。が、とうとう届かず仕舞いでした。結局、私が北朝鮮で持ち帰ったものは何もなく、生まれたばかりの子どもだけでした。一銭のお金もありません。

 引き上げ証明書をもらい山陽本線、東海道線を乗り継ぎ夜遅く東京駅につきました。東窓からみた本土の景色はいずこも空襲の焼け跡が生々しく、敗戦の惨めさをひしひしと感じさせました。私はこれで故郷に帰れるという安心感からか座席にすわったままいつしか眠りに落ちていました。突然、火のついたような赤ん坊の泣き声にハッとして我にかえると抱えていたはずの子どもがいません。座席の下で子どもが泣いていました。どんなことがあっても子どもだけは手離すことのなかった私が居眠りの最中に子どもをより落としてしまいました。もうすぐ故郷に帰れるという安心感がそうさせたのだと思います。

 

 東京駅で夜を明かしました。身体も衰弱し、足がむくんで、地下足袋を履いていましたが、それも履けないくらいでした。

最後の気力をふり絞るようにして上のから取手、そして常総線に乗り継いで下妻駅に降り立ちました。死ぬほど辛かった私の旅もやっと終わりました。下妻には私の姉がおりました。姉の家にころがり込むように入った時は、精も根も尽き果てておりました。姉に子どもを見てもらい、私はお風呂をいただき死んだように眠りました。何も考えることは出来ませんでした、深い眠りに落ちました。

 

 実家に知らせが行き、迎えが参りました。実家は下妻から西に12キロほどのところです。子供の生まれた事も消息もわからないまま、突然の帰国で両親もさぞびっくりしたことでしょう。ソ連との国境ということで、随分心配していたようです。毎日無事を祈っていたと母が申しておりました。家に帰りついたとたん栄養失調のせいか身体全体にむくみがでました。1年くらい治りませんでした。足のふくらはぎが傷になりいまだにそのあと跡は消えません。

 父は、子供と丸裸で戻った私をみて、「何時までくよくよしたってはじまらない。生まれる時は誰でも裸ではないか。命がある人生は今からだ。元気を出しなさい。」と元気をつけて下さいました。

 

 それにつけても気になるのは主人の安否でした。昭和23年頃からシベリアに抑留された方々もぼちぼち帰国してまいりましたので、あちこち主人の消息を尋ねて歩きました。

 そんなある日、清津憲兵隊で主人と同僚だったという長崎県の方からお手紙をいただきました。その方の話しによると主人は、ソ連軍に連行される途中パラチフスにかかり40度の高熱を発し、友人に抱えられながら北鮮の摩天領という山の中腹にさしかかった所で一歩も歩くことができなくなったということです。「自分にはかまわず前進してくれ」と言い残して倒れたそうです。その後主人がどうなったかは誰も確認した者がなく、未だにわかりません。

 

 家に帰った私は、しばらく農業の手伝いをしていましたが、いつまでも甘えているわけにもいかず自立しなければと思い、子供を両親の所に預け上京しました。叔母さんの所に4年間世話になり夏は洋裁、冬は編み物と思い、洋裁学校、編み物学校へと通いました。一通りのことを習い覚えて家に帰りました。

 主人の姉さんの所の貸家が空いたので、今の町に移り住むことにしました。

 

 親子二人きりの生活がはじまりました。息子も小学1年生になっておりました。

 その息子も今ではスポーツ店を経営する3人の子の父親に成長しました。生きていて本当によかった。あの時、この子と日本の土を踏むことだけを願って耐えた報いがいまあるのだとしみじみ思う今日この頃です。独りぼっちで誰に看取られることもなく無念の最後をとげた主人も、きっと高熱にうなされながら最後まで気がかりだったのは、残していく私と子供のことだったに違いありません。

 

 今年十月に元維南憲兵隊の皆さんで作っている憲友会が長野の善光寺で合同慰霊祭を行ってくれるということを伺い大変有り難く思っております。今は3人の孫達に囲まれ何不自由のない生活を送っております。「あなたの分まで頑張りました。ご安心下さい。」と主人の霊に報告するつもりでございます。

 

 

ほんとうによかった

耐えた報いが語る

38年間の想い出

 

昭和五十八年十月二十三日

 

—————

戻る