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母の想いをつなぐ ~戦争の先にある悲しみ~ 湯本はな子さん

2018年03月06日 23:35

 

Q今回お話を受けてくださった理由

最近,この話を伝えていかなくてはいけないのではないか,みんなに当時のことを知ってもらいたいと常々思っ

ていて,この社協さんのデイサービスでもみなさんに見てもらおうと写真や,手紙をもってきました。

そのご縁で今回お話をいただいたので,子供や弟に話をしたところ「いいことだから話していいと思うよ」と背中を押されお受けしました。

 

Qお父様が出兵されたのは湯本さんがおいくつのころですか?

 たぶん,私が7つのころ。父の命日は昭和20年6月18日で私が10歳の時戦死しました。戦死したとき父は,38歳だとおもうんだよね。

 

Qこのお写真は,出兵前に撮影したんですか?

 そうよ。父が戦争に行くことになったので家族みんなで,サカイ写真館でとったのよ。うちは,今思えばたべるのもそれほど困っていなかったように思うわ。だから,こんな立派な写真も撮れたんでしょうね。父は,掛け持ちで2つの仕事をしていて,日本生命の外交の仕事と谷貝の肥料屋さんで働いていました。

 

Qお父様はどちらに出兵されたんですか?

  父は,海軍として最初は,静岡県へ,そしてその後北海道北千島へ行ったようです。招集令状ってね,ピンク

の紙なのよ。母は,字が読めなかったのでその紙をもって,近所のおじちゃんのところへ持って行ったのを

覚えています。

 

Qお母さんのその時の様子はどうでした?

  特に動揺したようすもなく,いつもと変わらない母でした。後から父が戦争へ行くということをみんなで聞かされたのを覚えています。

 

Qその時湯本さんや,他の兄弟の方たちはどう思われましたか

  私も7つだったし,「ああ,戦争にいくんだな。しっかりしなきゃな」と思いましたがそのくらいの感情しかありませんでした。

 

Qお手紙を拝見すると,とても達筆で子供への愛情,近所の方への心遣い,とても今の私と同年齢とは思えないほどご立派ですね。

そうなんだよね。父は本当達筆で教養のある人だったと思います。この手紙の便せんは,誰でもいただけるとは限らない便せんであることをあとから知りました。

  父は,これ以外にもたくさんの手紙をくれました。そのたびに,近所のおじちゃんが母や,私たち兄弟へ読み聞かせてくれました。その内容は,いつも私たち家族のことを気にするものや,近所への気遣いのものでした。

Qお父様が戦死報告を受けたときの様子を教えてください。

  私が,学校で授業を受けていた時,先生から「お父様が戦死されたようだからお家に帰りなさい」と言われ境小から坂花町の自宅まで歩いて帰った。悲しいとかあまり感情はありませんでした。

 

Qその後お骨は帰ってこられたのですか?

 戻ってこないわよ。

 今の鈴木歯科,元小島燃料やさんのところに母に連れられて行きました。当時は,自分も小さかったからとても大きなトラックに感じたけどもしかしたらそんなに大きくなかったのかもしれません。そのトラックの荷台にたくさんの白い箱が積んであってそのうちの一つを母と受け取りました。中を開けると「野口清三郎」と書かれた小さな縦長の紙が1枚入っていました。「あ~こんな小さな紙しかないんだ」とおもいました。

 

Qご近所に家族が戦死された方はほかにも大勢いらしたんですか?

 あまり聞かなかったです。

 父が戦死してから数年後,秋田県の方が家へ訪ねてきたんです。父は,実は,北海道からこちらへ帰ってくる船で攻撃を受け亡くなったのよ。そして,訪ねてきた秋田県の方は,父に「野口さんは,お子さんもいらっしゃるのだから,私の代わりに先の船に乗ってください」と言ってくれたみたいなんだけど父は,乗らなかったそうなの。手紙に「恩賜のたばこをいただいた」と書いてあったので,「恩賜のたばこをいただいて 明日は死ぬぞと決めたは・・・」っていう歌を小さい頃は何とも思わずに歌っていたけど・・・

父はきっとある程度覚悟をしていたんだと思うし,後から行く船の方がもしかしたら危険なのを知っていて断ったのかもしれない。

その方が,一番下の妹に赤い皮靴を持ってきてくれたのを覚えています。

 

Qその後の生活はお母様も大変でしたでしょうね。

 母の父の収入の関係で,町へ生活保護の申請をしたが受けられなかったようで生活はかなり苦しかった。母は行商の仕事をしながら私たちを育ててくれました。

 私も,納豆など自分は食べずに他の兄弟に分け与えたりしました。

 その後,私も中学卒業後東京へ働きに出たり,目黒のとある会社の重役さんのお家のご奉公をしたりして結婚し今があります。

母は昭和52年に母が亡くなったのですが、この手紙や写真は亡くなる2年前にに預かりました。

 最近特に,私はこの手紙を通して,当時のことを話す役割を担っているんではないか?子供たちに伝えていかなくてはいけないのではないか?という思いにかられていたのよ。

 あの頃があったから今がある。そして,私は,本当に人に恵まれていると思う。そしてたくさんの人との出会いから本当に不思議な縁が沢山あった。

あんなに小さかった生まれたてのあなたが大人になって町民祭で「湯本のおばちゃんですよね」って声をかけてもらえたことがどんだけうれしかったことか。そして,あなたが勤めているこの職場で私が伝えたいと思っていた体験の話ができた。本当に不思議よね。

 

 

時折,涙を流し,軍歌を口ずさみ,上を向きながら記憶の糸をたどるように一生懸命私に伝えてくれる湯本さんの懸命な姿が印象的でした。

そんな素敵な湯本さんの人間性が,素敵な縁を引き寄せたのではないかと思います。

そして,この経験を聞かせていただいた私たちが,今度は湯本さんからバトンを託され多くの人たちへとつないでいく役割を担っていかなくてはならないと痛感しました。    (染野)

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