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境の郷土史⑨ 戦国関宿城主簗田(やなだ)氏に仕えた 石山三河守
2018年08月18日 01:53
大歩の石山家のルーツを辿ってみると、遠祖は「石山三河守」と伝えている。「三河守」は、戦国関宿城主簗田氏の家臣として仕えた人である。
初見される史料は、永禄4年(1561)長尾景虎(上杉謙信)は、北条氏の本拠小田原に向けて進軍、古河公方家簗田氏は重要拠点で籠城戦を展開し防戦した。この協力にたいして、簗田晴助は、三河守へ検地高15貫文(扶持米50石)の地
を宛がった。次に永禄8年(1565)北条氏康、氏政は簗田持助の本拠となってい
大歩の石山家のルーツを辿ってみると、遠祖は「石山三河守」と伝えている。「三河守」は、戦国関宿城主簗田氏の家臣として仕えた人である。
初見される史料は、永禄4年(1561)長尾景虎(上杉謙信)は、北条氏の本拠小田原に向けて進軍、古河公方家簗田氏は重要拠点で籠城戦を展開し防戦した。この協力にたいして、簗田晴助は、三河守へ検地高15貫文(扶持米50石)の地
を宛がった。次に永禄8年(1565)北条氏康、氏政は簗田持助の本拠となっていた関宿城を攻撃する。岩付(槻)太田氏資が先陣を務め、宿中まで攻め入ったが持助に撃退された。(第一次関宿合戦)
この時に、北条氏の防備の為、梁田氏の居城水海城(古河市)に詰めていた「三河守」に対して持助はこれを賞して、城の警護にあたる役名「隼人佐」という官途名(官名)を与えた。 更に、天正2年(1574)、第三次関宿合戦では、「三河守」は山王山北曲輪(五霞町)において大きな働きをおこなった。これを賞して持助より「感状」を与えられた。その後の消息は不明である。
尚、簗田氏は下野国梁田御厨の地を名字とし、古河公方足利氏の宿老として満助、持助、政助、高助、晴助、持助と8代鎌倉、戦国期を通して160年古河公方足利氏と共に栄枯盛衰の道を歩んだ人である。 (文責 郷土史家 中村正己)
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