~ We Love Sakai ~
境の郷土史④ 与謝蕪村と親交を結んだ俳人 箱島阿誰
2016年08月20日 13:09江戸時代の中期、境町には与謝蕪村と親交のあった箱島阿誰という俳人がいた。阿誰は、正徳元年(1711)に関宿向下河岸(現・幸手市)において内堀家の三男として生まれる。本名は布慶。享保10年代、境町の雑穀問屋等を営む初代箱島忠右衛門の娘ヤスの婿となる。のちに善右衛門、善兵衛と改名する。箱島家とは現在、「化粧品店」を営む家である。
阿誰の俳諧歴は、松尾芭蕉亡きあと、江戸俳諧を復興した宗阿(本名早野巴人)に元文3年(1738)に入門する。俳号は始め蛙吹、のち阿推、阿誰と変わり、他に郢月泉、樗斎と号した。ところで、蕪村が宗阿に入門したのは元文2年であることから、この頃より同門の阿誰と親交を深めたといわれている。寛延元年(1748)に刊行された大阪出身の田鶴樹編の句集「西海春秋」の詠人は「関東下総連中」とあることから、蕪村は境に阿誰を訪れ、句会を楽しんだものである。
この句集に蕪村と阿誰は次の句が収められている。
四時混雑
川かげの 一株づつ 紅葉哉 蕪村
花盛 散るとおもへば 寂しけれ 阿誰
その後も蕪村はたびたび阿誰を訪れてともに句を詠みあう盟友であった。宝暦2年(1752)刊行の「反古衾」(町指定文化財)は、蕪村、結城の俳人雁宕などの協力を得て阿誰が編したものである。また、師宗阿を偲び、雁宕、下館(筑西市)の俳人大済共編「夜半亭句集」を撰集する。これに蕪村は跋文を寄せている。
反古衾
後、安永元年(1772)12月15日、阿誰は62歳で生涯を閉じる。菩提寺は、吉祥院(新吉町)である。
碑の側面に「かねてなき 身けふぞ花みる 死出の旅」
辞世の句が刻まれている。
(文責 郷土史家 中村正己)
タグ:
—————