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境の名所 ~ 桜土手(北側)の石仏群 ~

2014年10月05日 10:37

桜土堤のはずれに石仏群があるのをご存じですか。

 
「境の生活史」に依ると、江戸時代、桜土堤は近くに天神社があったことから「天神堤」と呼ばれ、明治時代に修築、大正時代に桜の木を植樹して桜の名所になった、とのこと。
 
 町史では現在大師像は四十一基、観音像は十六基が確認できる。今は訪れる人もなく、ご近所の方が草取りなど、手入れをして下さっているようです。
経年の風雪や地震により、劣化したり傾いたり、また破損した像もあります。石仏の下にはっきりと判明できる(奉納した方の)氏名もあり、昭和5年とありますので、その石仏は84年前の奉納とわかります。また「弘法大師千百年遠忌記念像」とある石仏もありますので、それは100年前でしょうか?
これらの石仏はなぜ「旧天神堤」に安置されたのでしょうか?
 
 「大師講?」などの意見も出ましたがご存知の方、編集部にご一報ください。
 
 
※この大師像は一番と二番。御夫婦で奉納されたようデス。
 
 
・・・・(略)・・・
 
石仏は大師像と観音像です。
今の桜土手は江戸時代中期には、そばに天神社があったことから「天神堤」と呼ばれていたようです。
明治時代に2回、増築修繕工事をして、大正6年に桜の木を植樹したようです。
その土手にはいつ頃からか、三十三観音と八十八大師像が安置されていました。
しかし、土地計画事業により現在は桜堤北に安置されています。
今は訪れる方もいないようで、でも近所の方が草取りなどきれいにして下さっています。
 
 桜土手(天神堤)に石仏が奉納されたイキサツなどを知りたくて、いろいろと調べたり、たくさんの方のお話を伺いましたが、結局わかりませんでした。
多分「大師講」だろう?それとも、洪水から町を守るために奉納した?
よくわからず、中途半端に終わった取材でした。
きっと(石仏を奉納された方の)お孫さんあたりはご近所に健在でおられるでしょうから、機会があればお話しを聞いてみたいなぁ、とまだ未練がましく思っているワタシです。
 
そんなこんなで、悩みながらも結局は楽しみながらの取材でした。
今回も快く取材に応じて下さった皆様、協力して下さった皆様。
ほんとうにありがとうございました。
心より感謝いたします。

 

※ご近所の方が除草など手入れをして下さっています。苔むした像と桃色の小さな花が寂寥感を…

 

 

※スタッフの「ブログ~私たちから~です。

桜土手の石仏群、その後・・・・

 

「きんもくせい」3号での記事で、桜土手の石仏のことを調べました。
 
境町史編さん委員会による「境の生活史」(すごく立派な本です。町民なら驚くほど安く買えます)で調べたり、「あの方なら知っているかも?」と聞くと訪ねて行きました。
突然の訪問でしたが、どなたも親切に応対してくださいました。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
 
結果的には境町発行の「境の生活史 地誌編」に載っている以上のことは判明しませんでした。
桜土手の石仏のことが「どこかのお宅やお寺」に文書として残っているかどうかも不明です。
 
しかし、3号発行後もありがたい情報をいただきました。
また4号発行に向けての、O様方敷地内に安置されているお大師様の取材もしてまいりました。
O様宅の木像の大師像は、明治時代に利根川に流れていたものを近所の方が拾い、以降、O様家で祀るようになったとのこと。
昔は敷地が広場のようになっており、4月21日のお大師様の祭礼には、露天も出るほど賑わい、芝居小屋も建ったとのことです。
 
同じように桜土手のお大師さまも桜の時期には人々で賑わい、お団子なども売られたと、年配の方からうかがいました。
いただいた情報によりますと、桜土手のお大師さまは「大師講」で、今も講元のお宅が上町にありますが、一帯が火事になったために文書等は残っていないのでは?とのことです。
当時は娯楽も少なく、大師講や天神講などが、人々の楽しみだったのでしょうか。
当時の賑わいが目に浮かぶようです。
 
以上、情報としては断片的で好奇心や疑問はまだまだ尽きないのですが・・・
わたし達の力では、ここまでで限界かと。
 
3号、そして4号に亘る「お大師様」の取材では、たくさんの方とのご縁ができました。
みなさま、ありがとうございました。
そして「お大師様」ありがとうございました。
 
 

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