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言葉を持つということ  ~ 酒井基子さん ~(投稿)

2017年06月09日 00:11

 

最近なんだか、きな臭い雰囲気が漂い始めたね。」「つい数年前ならとても許されることではなかったのにね。」という会話が私の周りで繰り返される今日この頃です。

 例の森友学園幼稚園での教育勅語暗唱シーンは、とてもショッキングなものでした。あの事件そのものへの言及は置いておきます。むしろこれ以降「教育勅語を授業に取り入れても差し支えない」という国会答弁などがまかり通っていることが、              私にとってはとても納得できないものです。

 私は昭和28年4月に小学校に入学しました。言ってみれば戦後教育で最も戦争への反省が強く滲んでいたカリキュラムで教育された年代です。「あんな悲惨な戦争は二度と起こしてはならない。」それには一人一人が自分の意見を持ち、自分の言葉でそれを言えるようにする。言える場を保証する。憲法21条表現の自由です。もちろん小学生にそんなことはわかりませんが、小・中・高と思い返してみると、どの課程でも意見発表の場が大事にされてきました。

「戦争が廊下の隅に立っていた」という詩の一節があります。戦争はわかりやすい顔で来るのではなく、いつの間にか忍び寄ってきます。気づいた時はアウトだったということだけは繰り返したくありません。それには日々起きていることが意味するものを自分の頭で考え、自分の言葉で言えるようにしたいと思っています。

 でも、このことはかなりの訓練を要します。例えばとても簡単な例ですが、「コーヒーと紅茶、どちらにしますか」と聞かれた時、何人かそこにいたら、「どちらでも」とか「皆さんと同じもので」とか答えがちではありませんか。あるいは大部分の人が「コーヒーで」と言ったら、「私は紅茶にしてください」とちゃんと言えますか。「気遣い」「場の空気を読む」ことが重視されがちな日本では、自分の意見を持ち、それを言葉にすることがとても難しいのです。ですから、手始めにこんな時でも「わたしはコーヒーをお願いします」「わたしは紅茶で」と、皆で言うことにしましょう。

これが「戦争はイヤだ」に結びついていくはずです。

 

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